上海茶 美味端麗


by adhrutjfh

笹の葉ッ子嚥(の)んだ

 雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓(ふもと)を廻るにつれて、乗客は互に膝(ひざ)を突合せて震えた。二里ばかり乗った。馬車を下りて、それから猶(なお)山深く入る前に、三吉はある休茶屋の炉辺(ろばた)で凍えた身体(からだ)を温めずにはいられなかった。一里半ばかりの間、往来する人も稀(まれ)だった。谷々の氾濫(はんらん)した跡は真白に覆(おお)われていた。
 訪ねて行った友達は牧野と言って、辺鄙(へんぴ)な山村に住んでいた。ふとしたことから三吉はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。そこへ訪ねて行く度に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、好く整理された耕地など――それを見るのを三吉は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着かなかった。主人を始め細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で話した。この温い家庭の空気の中で、唯三吉は前途のことを思い煩(わずら)った。事情を打開けて、話してみようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、三吉は言わず仕舞に牧野の家の門を出た。そして、制(おさ)えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を帰って行った。一時間あまり乗合馬車の立場(たてば)で待ったが、そこには車夫が多勢集って話したり笑ったりしていた。思わず三吉も喪心した人のように笑った。やがて馬車が出た。沈んだ日光は寒い車の上から彼の眼に映った。林の間は黄に耀(かがや)いた。彼は眺め、かつ震えた。
 家へ帰ってからも、三吉はそう委(くわ)しいことを家のものに話して聞かせなかった。末の子供は炬燵(こたつ)へ寄せて寝かしてあった。暦や錦絵を貼付(はりつ)けた古壁の側には、お房とお菊とがお手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。三吉は炬燵にあたりながら、姉妹の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おうと思った。
 お房は――三吉の母に肖(に)て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。丁度牧野から子供へと言って貰って来た葡萄(ぶどう)ジャムの土産があった。それをお雪が取出した。お雪は雛(ひな)でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗(な)めさせるやら、菓子(かし)麺包(パン)につけて分けてくれるやらした。
 三吉がどういう心の有様でいるか、何事(なんに)もそんなことは知らないから、お房は機嫌(きげん)よく父の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
  「兎(うさぎ)、兎、そなたの耳は
   どうしてそう長いぞ――
   おらが母の、若い時の名物で、
   笹の葉ッ子嚥(の)んだれば、
   それで耳が長いぞ」
 これはお雪が幼少(おさな)い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
 三吉は力を得た。その晩、牧野へ宛てて長い手紙を書いた。
 幸にも、この手紙は、彼の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野は彼の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとすらしなかった。三吉は牧野の深い心づかいを感じた。自分のベストを尽すということより外は、この友達の志に酬(むく)うべきものは無い、と思った。
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# by adhrutjfh | 2006-03-04 13:22

四月

 四月に入って、三吉は家を探しがてら一寸上京した。子供等は彼の帰りを待侘(まちわ)びて、幾度か停車場まで迎えに出た。北側の草屋根の上には未だ消残った雪が有ったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。三吉は帰って来て、東京の郊外に見つけて来た家の話をお雪にして聞かせた。一軒、植木屋の地内に往来に沿うて新築中の平屋が有った。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて行って其処(そこ)で仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思われたが、いかにも閑静な、樹木の多い周囲が気に入った。二度も足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、其処を借りることに決めて来た。こんな話をして、それから三吉は思出したばかりでも汗の流れるという風に、
「家を探して歩くほど厭(いや)な気のするものは無いネ――加(おまけ)に、途中で、ヒドく雨に打たれて……」
 と言って聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが訳もなしに嬉しかったのである。
 その晩、お房やお菊は寐(ね)る前に三吉の側へ来て戯れた。
「皆な温順(おとな)しくしていたかネ」と三吉が言った。「サ、二人ともそこへ並んで御覧」
 二人の娘は喜びながら父の前に立った。
「いいかね。房ちゃんが一号で、菊ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
 娘達は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷(すばしこ)く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃ無いよ。房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
 大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中躍(おど)って歩いた。
「へえ、繁ちゃんも種痘(ほうそう)がつきましたに、見て下さい」
 と在から奉公に来ていた下女も、そこへ末の子供を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、お繁は未だ匍(は)いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。漸く首のすわりもシッカリして来た。家の内での愛嬌者(あいきょうもの)に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
 こう三吉が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。お雪は一人ずつ寝巻に着更えさせた。下女は人形でも抱くようにして、柔軟(やわらか)なお繁の頬へ自分の紅い頬を押宛てていた。
 やがて三人の子供は枕を並べて眠った。
「一号、二号、三号……」
 この自分から言出した串談(じょうだん)には、三吉は笑えなく成った。彼の母は、死んだものまで入れると八人も子供を産んでいる。お雪の方にはまた兄妹が十人あった。名倉の姉は今五人子持で、※の姉は六人子持だ。何方(どちら)を向いても子供沢山な系統から来ている……
 翌日(あくるひ)、三吉は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。そろそろ彼の家では引越の仕度に取掛った。よく郊外の噂(うわさ)が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程工事が進んだろうとか、毎日言い合った。夫婦の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行く気がした。
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# by adhrutjfh | 2006-03-04 13:21

夫婦は

 夫婦は引越の仕度にいそがしかった。お雪は自分が何を着て、子供には何を着せて行こう、といろいろに気を揉(も)んだ。
「房ちゃん、いらっしゃい。着物(おべべ)を着てみましょう――温順(おとな)しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」
 こう娘を呼んで言って、ヨソイキの着物を取出してみた。それは袖口を括(くく)って、お房の好きなリボンで結んである。お菊の方には、黄八丈の着物を着せて行くことにした。
「菊ちゃんは色が白いから、何を着ても似合う」
 と皆なが言合った。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。
「いよいよ御別れでごわすかナア」と学校の小使も入口の庭の処へ来て言った。
「何物(なんに)も君には置いて行くようなものが無いが、その鍬(くわ)を進(あ)げようと思って、とっといた」と三吉は自分が使用(つか)った鍬の置いてある方を指して見せた。
「どうも済みやせん……へえ、それじゃ御貰い申して参りやすかナア。鍬なんつものは、これで孫子の代までも有りやすよ」
 小使は百姓らしい大きな手を揉んで、やがて庭の隅(すみ)に立掛けてある鍬を提(さ)げて出て行った。
 出発の日は、朝早く暖い雨が通過ぎた。長い間溶けずにいた雪の圧力と、垂下った氷柱(つらら)の目方とで、ところどころ壊(こわ)れかかった北側の草屋根の軒からは、隣家(となり)の方から壁伝いに匍(は)って来る煙が泄(も)れた。丁度、庭も花の真盛りであった。
 隣家のおばさんは炊立(たきたて)の飯に香の物を添えて裏口から運んで来てくれた。三吉夫婦は、子供等と一緒に汚(よご)れた畳の上に坐って、この長く住慣れた家で朝飯を済ました。そのうちに日が映(あた)って来た。お房やお菊は近所の娘達に連れられて、先(ま)ず停車場を指して出掛けた。
 道普請(みちぶしん)の為に高く土を盛上げた停車場前には、日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのが集って、名残(なごり)を惜んだ。そこまで夫婦を追って来て、餞別(せんべつ)のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなども有った。三吉の同僚に、親にしても好いような年配の理学士が有ったが、この人は花の束を持って来て、夫婦の乗った汽車の窓へ差入れた。その日は牧野も洋服姿でやって来て、それとなく見送っていた。
「困る。困る」
 とお菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、周章(あわ)てて父親へしがみ着いた。
 ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢(こずえ)、石垣の多い桑畑などは次第に汽車の窓から消えた……
 汽車が上州の平野へ下りた頃、三吉は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲に隠れてよく見えなかった。
 乗換えてから、客が多かった。三吉は立っていなければ成らない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処も無かった。お房とお菊とは、かわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳を宛行(あてが)われても、揺(ゆす)られても、泣止(なきや)まなかった。お雪は持余(もてあま)した。仕方なしにお繁を負(おぶ)って、窓の側で起(た)ったり坐ったりした。
 午後の四時頃に、親子五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければ成らないというので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、親達に連れられて始めての道を歩いたが、お繁の方は酷(ひど)く旅に萎(しお)れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま、気抜のしたような眼付をしていた。時々お雪は立止って、めずらしそうに其処是処(そこここ)の光景(さま)を眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
 と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
 郊外は開け始める頃であった。三吉が妻子を連れて移ろうとする家の板葺(いたぶき)屋根は新緑の間に光って見えて来た。
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# by adhrutjfh | 2006-03-04 13:21

一九四五年

 一九四五年の八月十五日からのち、日本の民主化がいわれるようになってから、いくつかの民主化のための委員会がつくられた。文化関係で、ラジオの民主化のための放送委員会、軍国主義の出版統制の遺風を民主化するための用紙割当委員会、出版文化委員会、教育の民主化、成人教育のための社会教育委員会、そのほか一九四六年から次の年の春までぐらいにつくられた委員会の多くは、正直に日本の民主化を任務として組織された。委員の人選も一種のあまくだりであったにしても、民主化について正直に発言し行動することのできる人々が選ばれたのであった。
 ところが、さまざまの委員会が、民主化のための委員会として組織された当時、吉田茂は、占領政策に対して危惧をいだいていた。その後、日本の民主化にいろいろの変調が加えられて、たとえば用紙割当委員会の権限が、ずるずると内閣に属す委員会に移され、文化材の合理的割当を口実に、官僚統制、赤本屋委員会に堕してしまうころから、吉田茂の明るい展望が記者団との会見で語られるようになった。
 更に、新聞も御用大新聞に整理することに成功し『くにのあゆみ』から『民主主義』読本を文部省が発行できるように日本の民主化が歪曲されて来るにつれて、吉田茂は、とうとう、日本人の大部分が満足していない国会を、外国の新聞がほめている、というような状態になった。高野岩三郎氏が死去されたのちNHKの会長となった古垣鉄郎氏は、英語もフランス語も達者であろうし、行儀がいいことが必要な時と場合の分別もあり、貴族院議員だったし、文化人であろうけれども、NHKは、新会長によって会長流民主化におかれざるを得ない。政府の放送委員会案というものが、はじめの放送委員会と本質的にちがうことは、日本のラジオを愚民政策の道具にしたくない人々の反対のきびしさを見てもはっきりしている。
 政府は、表面民主的な委員会を次から次へこしらえている。それが日本の人民の発展に限界を与えようとするものであることは、特別資格審査委員会一つを見ても、悲しいほどその目的があらわである。はじめ、日本の民主化のために発足したいろいろの「委員会」は、四年の間にあわれやへたぐされとなってきている。
 わたしたちは、こういう全体の傾向を理解し、委員会の本質について、一層監視をおこたってはならない状態におかれているのである。
 参議院の法務委員会と裁判所との間に、浦和充子の事件について、見解の相異があり、法務委員会の権限について論議されている。こういう問題も、わたしたちは、人民の基本的人権[#「権」は底本では「件」]の擁護とブルジョア的な法律適用による裁判が果して公正なものであるかどうかについての絶え間ない注目とを基礎にして、判断してゆく必要がある。参議院の引揚援護委員会も吉村隊事件ではいかがわしい委員会の本質を、人々の前にむきだした。
 今日の新聞では西尾末広の偽証罪が不問に附せられるかもしれないことについて、弁護士である人からの投書があった。有名なえらい人の偽証は無罪とされ、一般の人の偽証は犯罪とされているその点への疑惑が語られていた。裁判が精神的・物質的圧力から必ずしも自由でないことがうかがえる。
 目さきの話題だけに注意を奪われずに、わたしたちは、こんにちの反民主的な権力に影響をうけている各種の委員会の活動の本質について、積極的な発言をしてゆく義務がある。――わたしたちは、自分たちのこの高税で彼らを養い、政府をつくらせているのであるから。
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# by adhrutjfh | 2006-03-04 13:20