上海茶 美味端麗


by adhrutjfh

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遣瀬(やるせ)

 幼い子供達は間もなくお種に取って、離れがたいほど可愛いものと成った。肩へ捉(つか)まらせるやら、萎(しな)びた乳房を弄(なぶ)らせるやら、そんな風にして付纏(つきまと)われるうちにも、何となくお種は女らしい満足を感じた。夫に捨てられた悲哀(かなしみ)も、いくらか慰められて行った。
 炉辺に近い食卓の前には、お房とお菊とが並んで坐った。伯母は二人に麦香煎(むぎこがし)を宛行(あてが)った。お房は附木(つけぎ)で甘そうに嘗(な)めたが妹の方はどうかすると茶椀(ちゃわん)を傾(かし)げた。
「菊ちゃん、お出し」と言って、お種は妹娘(いもうと)の分だけ湯に溶かして、「どれ、着物(おべべ)がババく成ると不可(いけな)いから、伯母さんが養って進(あ)げる」
 子供にアーンと口を開かせる積りで、思わず伯母は自分の口を開いた。
「ああ、オイシかった」とお房は香煎(こがし)の附いた口端を舐め廻した。
「房ちゃんも菊ちゃんも頂いて了ったら、すこし裏の方へ行って遊んで来るんですよ。母さんが何していらっしゃるか、見てお出なさい――母さんは御洗濯かナ」
「伯母さん、復た遊びましょう」とお房が言った。
「ええ、後で」とお種は笑って見せた。「伯母さんは父さんの許(とこ)で御話して来るで――」
 子供は出て行った。
 三吉はその年の春頃から長い骨の折れる仕事を思立っていた。学校の余暇には、裏の畠へも出ないで、机に向っていた。好きな野菜も、稀(たま)に学校の小使が鍬(くわ)を担(かつ)いで見廻りに来るに任せてある。
「三吉さん、御仕事ですか」とお種は煙草入を持って、奥の部屋へ行った。彼女は弟の仕事の邪魔をしても気の毒だという様子をした。
「まあ、御話しなさい」
 こう答えて、弟は姉の方へ向いた。丁度お種も女の役の済むという年頃で、多羞(はずか)しい娘の時に差して来た潮が最早身体から引去りつつある。彼女は若い時のような忍耐力(こらえじょう)が無くなった。心細くばかりあった。
「妙なものだテ」とお種が言出した。この「妙なものだテ」は弟を笑わせた。その前置を言出すと、必(きっ)とお種は夫の噂を始めるから。
「旦那も来年は五十ですよ。その年に成っても、未だそんな気でいるとは。実に、ナサケないじゃ有りませんか……男というものは可恐(おそろ)しいものですネ……私が旦那の御酒に対手(あいて)でもして、歌の一つも歌うような女だったら好いのかも知れないけれど――三吉さん、時々私はそんな風に思うことも有りますよ」
 苦笑(にがわらい)したお種の頬(ほお)には、涙が流れて来た。その時彼女は達雄が若い時に秀才と謳(うた)われたことや、国を出て夫が遊学する間彼女は家を預ったことや、その頃から最早夫の病気の始まったことなどを弟に語り聞せた。
「ある時なぞも――それは旦那が東京を引揚げてからのことですよ――復た病気が起ったと思いましたから、私が旦那の気を引いて見ました。『むむ、あの女か――あんな女は仕方が無い』なんて酷(ひど)く譏(けな)すじゃ有りませんか。どうでしょう、三吉さん、最早旦那が関係していたんですよ。女は旦那の種を宿しました。その時、私もネ、寧(いっ)そその児を引取って自分の子にして育てようかしら、と思ったり、ある時は又、みすみす私が傍に附いていながら、そんな女に子供まで出来たと言われては、世間へ恥かしい、いかに言ってもナサケないことだ、と考えたりしたんです。間もなく女は旦那の児を産落しました。月不足(つきたらず)で加(おまけ)に乳が無かったもんですから、満(まる)二月とはその児も生きていなかったそうですよ――しかし、旦那も正直な人サ――それは気分が優(やさし)いなんて――自分が悪かったと思うと、私の前へ手を突いて平謝(ひらあやま)りに謝る。私は腹が立つどころか、それを見るともう気の毒に成ってサ……ですから、今度だっても旦那が思い直して下さりさえすれば……ええええ、私は何処(どこ)までも旦那を信じているんですよ。豊世とも話したことですがネ。私達の誠意(まごころ)が届いたら、必(きっ)と阿父(おとっ)さんは帰って来て下さるだろうよッて……」


「伯母さん、お化粧(つくり)するの?」とお房は伯母の側へ来て覗(のぞ)いた。
「伯母さんだって、お化粧するわい――女で、お前さん、お化粧しないような者があらすか」
 お雪や子供と一緒に町の湯から帰って来たお種は、自分の柳行李(やなぎごうり)の置いてある部屋へ入って、身じまいする道具を展(ひろ)げた。そこは以前書生の居た静かな部屋で、どうかすると三吉が仕事を持込むこともある。家中で一番引隠れた場処である。お種が大事にして旅へ持って来た鏡は、可成(かなり)大きな、厚手の玻璃(ガラス)であった。それに対(むか)って、サッパリと汗不知(あせしらず)でも附けようとすると、往時(むかし)小泉の老祖母(おばあさん)が六十余に成るまで身だしなみを忘れずに、毎日薄化粧したことなどが、昔風の婦人(おんな)の手本としてお種の胸に浮んだ。年のいかない芸者風情(ふぜい)に大切な夫を奪去られたか……そんな遣瀬(やるせ)ないような心も起った。残酷なほど正直な鏡の中には、最早凋落(ちょうらく)し尽くした女が映っていた。肉が衰えては、節操(みさお)も無意味で有るかのように……
 頬の紅いお房の笑顔が、伯母の背後(うしろ)から、鏡の中へ入って来た。
「房ちゃん、お前さんにもお化粧(つくり)して進(あ)げましょう――オオ、オオ、お湯(ぶう)に入って好い色に成った」
 と言われて、お房は日に焼けた子供らしい顔を伯母の方へ突出した。
 やがてお種はお房を連れて、お雪の居る方へ行った。お雪も自分で束髪を直しているところであった。
「母さん」とお房は真白に塗られた頬を寄せて見せる。
「へえ、母さん、見てやって下さい――こんなに奇麗に成りましたよ」とお種が笑った。
「まあ……」とお雪も笑わずにいられなかった。「房ちゃんは色が黒いから、真実(ほんと)に可笑(おか)しい」
 暫時(しばらく)、お種はそこに立って、お雪の方を眺めていたが、終(しまい)に堪え切れなくなったという風で、こう言出した。
「お雪さん、そんな田舎臭い束髪を……どれ、貸して見さっせ……私は豊世のを見て来たで、一つ東京風に結ってみて進(あ)げるに」
 お房は大きな口を開きながら、家の中を歌って歩いた。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:23

彼方(あちら)

 南の障子に近いところは、お雪が針仕事を展げる場所である。お種はお雪と相対(さしむかい)に坐って、余念もなく秋の仕度の手伝いをした。障子の側は明るくて、物を解いたり縫ったりするに好かった。
「菊ちゃん、伯母さんにその写真を見せとくれ――伯母さんは未だよく拝見しないのが有った」
 お種は子供が取出した幾枚かの写真を受取った。お雪が生家(さと)の方の人達の面影(おもかげ)は順々に出て来た。
「お雪さん」とお種は勉の写真を取上げて、「この方がお福さんの旦那さんですか」
「ええ」
「三吉も、彼方(あちら)で皆さんに御目に掛って来たそうですが……やはりこの方は名倉さんの御養子の訳ですネ。商人は何処(どこ)か商人らしく撮(と)れてますこと」
 こう言ってお種は眺めた。
「菊ちゃん、そんなに写真を玩具(おもちゃ)にするんじゃ有りませんよ」
 と母に叱られても、子供は聞入れなかった。お種は針仕事を一切(ひときり)にして、前掛を払いながら起立(たちあが)った。
「さあ、房ちゃんも菊ちゃんも、伯母さんと一緒にいらっしゃい――復た御城跡の方へ行って見て来ましょう」
 お種は帯を〆(しめ)直して、二人の子供を連れて出て行った。お雪の側には、そこに寝かしてあったお繁だけ残った。部屋の障子の開いたところから、何となく秋めいた空が見える。白いちぎれちぎれの雲が風に送られて通る。
「姉さんは?」と三吉が学校から帰って来て聞いた。
「散歩がてらオバコの実を採りにいらっしゃいました――子供を連れて」
「そんな物をどうするんかネ」
「髪の薬に成さるとかッて――煎(せん)じて附けると、光沢(つや)が出るんだそうです――なんでも、伊東の方で聞いてらしったんでしょう」
 三吉は小倉の行燈袴(あんどんばかま)を脱捨てて、濡縁(ぬれえん)のところへ足を投出した。
「それはそうと、姉さんは木曾(きそ)の方へ子供を一人連れて行きたがってるんだが――どうだネ、繁ちゃんを遣(や)ることにしては」
 こんなことを夫が言出した。お雪は答えなかった。
「こう多勢じゃヤリキレない」と言って三吉はお繁の寝ている様子を眺めて、「姉さんに一人連れてって貰えば、吾儕(われわれ)の方でも大に助かるじゃないか……しきりに姉さんがそう言うんだ……」
「そんなことが出来るもんですか」とお雪は言葉に力を入れた。
 三吉は嘆息して、「姉さんだっても寂しいんだろうサ……そりゃ、お前、正太さんには子供が無いから、あるいは長く傍に置きたいと言うかも知れないし、くれろと言うかも知れない。その時はその時サ。当分姉さんが繁ちゃんを借りて行って、育てて見たいと言うんだ。どうだネ、お前は――俺(おれ)は一人位貸して遣っても可いと思うんだが」
「貴方は遣る気でも、私は遣りません――そんなことが出来るか出来ないか考えてみて下さい――」
「預けたって、お前、別に心配なことは無いぜ。姉さんのことだから必(きっ)と大切にしてくれる」
「姉さんが何と仰(おっしゃ)っても――繁ちゃんは私の児です――」
 姉が末の子供を郷里の方へ連れて行きたいという話は、三吉の方にあった。お雪は聞入れようともしなかった。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:23

秋も深く

 秋も深く成って、三吉の家ではめずらしく訪ねて来た正太を迎えた。正太は一寸上京した帰りがけに、汽車の順路を山の上の方へ取って、一夜を叔父の寓居(すまい)で送ろうとして立寄ったのであった。
 奥の部屋では客と主人の混(まざ)り合った笑声が起った。お種は台所の方へ行ったり、吾子(わがこ)の側へ行ったりして、一つ処に沈着(おちつ)いていられないほど元気づいた。
「正太や――お前は母親(おっか)さんを連れてってくれられる人かや」
「いや、今度は途中で用達(ようたし)の都合も有りますからネ――母親さんの御迎には、いずれ近いうちに嘉助をよこす積りです」
「そんなら、それで可いが、一寸お前の都合を聞いて見たのさ。何も今度に限ったことは無いで……」
 三吉を前に置いて、橋本親子はこんな言葉を換(かわ)した。漸(ようや)くお種は帰郷の日が近づいたことを知った。その喜悦(よろこび)を持って、復たお雪の方へ行った。
 三吉と正太とは久し振で話した。この二人が木曾以来一度一緒に成ったのは、達雄の家出をしたという後であった。顔を合せる度に、二人は種々(さまざま)な感に打たれた。でも、正太は元気で、父の失敗を双肩に荷(にな)おうとする程の意気込を見せていた。
「正太さん。姉さんも余程沈着(おちつ)いて来ましたろう。僕の家へ来たばかりの時分はどうも未だ調子が本当で無かった――僕が姉さんに、郷里(くに)へ帰ったら草鞋(わらじ)でも穿(は)いて、薬を売りに御出掛なさいなんて、そんな串談(じょうだん)を言ってるところです」
「そういう気分に成れると可(い)いんですけれど……然(しか)し、最早連れて帰っても大丈夫でしょう。母親さんが家へ行って見たら、定めし驚くことでしょうナア。なにしろ、私も手の着けようが有りませんから、一切を挙げ皆さんに宜敷(よろしく)頼む、持って行きたい物は持っておいでなさい――何もかもそこへ投出して了ったんです」
「その決心は容易でなかったろうネ」
「ところが、叔父さん、その為に漸く家の整理がつきました。そりゃあもう、襖(ふすま)に張ってある短(たん)冊まで引剥(ひっぺ)がして了ったんですからネ……そういう中でも、豊世の物だけは、一品だって私が手を触れさせやしません……まあ、母親さんが居なくて、反(かえ)って好かった。あれで母親さんが居ようものなら、それほどの決断には出られなかったかも知れません。田舎はそこへ行くと難有(ありがた)いもので、橋本の家の形も崩さずに遣って行かれる。薬は依然として売れてる――最早嘉助の時代でも有りませんから、店の方は若い者に任せましてネ、私は私で東京の方へ出ようと思っています。これからは私の奮発一つです」
「へえ、正太さんも東京の方へ……実は僕も今の仕事を持って、ここを引揚げる積りなんですが……」
「私の方が多分叔父さんよりは先へ出ることに成りましょう」
「随分僕も長いこと田舎で暮しました」
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:22

懐かしい

「お仙はどうしたかいナア」と不幸な娘のことまで委(くわ)しく聞きたがる母親を残して置いて、翌日(あくるひ)正太は叔父の許を発(た)って行った。
 そろそろお種も夫の居ない家の方へ帰る仕度を始めた。達雄が残して行った部屋――着物――寝床――お種の想像に上るものは、そういう可恐(おそろ)しいような、可懐(なつか)しいようなものばかりで有った。
「三吉さん――私もネ、今度は豊世の生家(さと)へ寄って行く積りですよ。寺島の母親さんにも御目に掛って、よく御話したら、必(きっ)と私の心地(こころもち)を汲(く)んで下さるだろうと思いますよ」
 隣室に仕事をしている弟の方へ話し掛けながら、お種は自分の行李を取出した。彼女はお雪と夏物の交換などをした。
 やがて迎の嘉助が郷里(くに)の方から出て来た。この大番頭も、急に年をとったように見えた。植物の好きなお種は、弟がある牧場の方から採って来たという谷の百合、それから城跡で見つけた黄な花の咲く野菊の根などを記念に携えて、弟の家族に別れを告げた。お種は自分の家を見るに堪(た)えないような眼付をして、供の嘉助と一緒に、帰郷の旅に上った。
 翌年(あくるとし)の三月には、いよいよ三吉もこの長く住慣れた土地を離れて、東京の方へ引移ろうと思う人であった。種々(いろいろ)な困難は彼の前に横たわっていた。一方には学校を控えていたから、思うように仕事も進捗(はかど)らなかった。全く教師を辞(や)めて、専心労作するとしても、猶(なお)一年程は要(かか)る。彼は既に三人の女の児の親である。その間、妻子を養うだけのものは是非とも用意して掛らなければ成らなかった。
 とにかく、三吉は長い仕事を持って、山を下りようと決心した。
「オイ、洋服を出しとくれ」
 とある日、三吉は妻に言付けた。三吉はある一人の友達を訪ねようとした。引越の仕度をするよりも何よりも、先(ま)ず友達の助力を得たいと思ったのである。
 寒そうな馬車の喇叭(らっぱ)が停車場寄(ステーションより)の往来の方で起った。その日は三吉と同行を約束した人も有ったが、途中の激寒を懼(おそ)れて見合せた位である。三吉は外套(がいとう)の襟(えり)で耳を包んで、心配らしい眼付をしながら家を出た。白い鼻息をフウフウいわせるような馬が、客を乗せた車を引いて、坂道を上って来た。三吉はある町の角で待合せて乗った。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:22

笹の葉ッ子嚥(の)んだ

 雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓(ふもと)を廻るにつれて、乗客は互に膝(ひざ)を突合せて震えた。二里ばかり乗った。馬車を下りて、それから猶(なお)山深く入る前に、三吉はある休茶屋の炉辺(ろばた)で凍えた身体(からだ)を温めずにはいられなかった。一里半ばかりの間、往来する人も稀(まれ)だった。谷々の氾濫(はんらん)した跡は真白に覆(おお)われていた。
 訪ねて行った友達は牧野と言って、辺鄙(へんぴ)な山村に住んでいた。ふとしたことから三吉はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。そこへ訪ねて行く度に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、好く整理された耕地など――それを見るのを三吉は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着かなかった。主人を始め細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で話した。この温い家庭の空気の中で、唯三吉は前途のことを思い煩(わずら)った。事情を打開けて、話してみようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
 到頭、三吉は言わず仕舞に牧野の家の門を出た。そして、制(おさ)えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を帰って行った。一時間あまり乗合馬車の立場(たてば)で待ったが、そこには車夫が多勢集って話したり笑ったりしていた。思わず三吉も喪心した人のように笑った。やがて馬車が出た。沈んだ日光は寒い車の上から彼の眼に映った。林の間は黄に耀(かがや)いた。彼は眺め、かつ震えた。
 家へ帰ってからも、三吉はそう委(くわ)しいことを家のものに話して聞かせなかった。末の子供は炬燵(こたつ)へ寄せて寝かしてあった。暦や錦絵を貼付(はりつ)けた古壁の側には、お房とお菊とがお手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。三吉は炬燵にあたりながら、姉妹の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おうと思った。
 お房は――三吉の母に肖(に)て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。丁度牧野から子供へと言って貰って来た葡萄(ぶどう)ジャムの土産があった。それをお雪が取出した。お雪は雛(ひな)でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗(な)めさせるやら、菓子(かし)麺包(パン)につけて分けてくれるやらした。
 三吉がどういう心の有様でいるか、何事(なんに)もそんなことは知らないから、お房は機嫌(きげん)よく父の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
  「兎(うさぎ)、兎、そなたの耳は
   どうしてそう長いぞ――
   おらが母の、若い時の名物で、
   笹の葉ッ子嚥(の)んだれば、
   それで耳が長いぞ」
 これはお雪が幼少(おさな)い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
 三吉は力を得た。その晩、牧野へ宛てて長い手紙を書いた。
 幸にも、この手紙は、彼の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野は彼の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとすらしなかった。三吉は牧野の深い心づかいを感じた。自分のベストを尽すということより外は、この友達の志に酬(むく)うべきものは無い、と思った。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:22

四月

 四月に入って、三吉は家を探しがてら一寸上京した。子供等は彼の帰りを待侘(まちわ)びて、幾度か停車場まで迎えに出た。北側の草屋根の上には未だ消残った雪が有ったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。三吉は帰って来て、東京の郊外に見つけて来た家の話をお雪にして聞かせた。一軒、植木屋の地内に往来に沿うて新築中の平屋が有った。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて行って其処(そこ)で仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思われたが、いかにも閑静な、樹木の多い周囲が気に入った。二度も足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、其処を借りることに決めて来た。こんな話をして、それから三吉は思出したばかりでも汗の流れるという風に、
「家を探して歩くほど厭(いや)な気のするものは無いネ――加(おまけ)に、途中で、ヒドく雨に打たれて……」
 と言って聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが訳もなしに嬉しかったのである。
 その晩、お房やお菊は寐(ね)る前に三吉の側へ来て戯れた。
「皆な温順(おとな)しくしていたかネ」と三吉が言った。「サ、二人ともそこへ並んで御覧」
 二人の娘は喜びながら父の前に立った。
「いいかね。房ちゃんが一号で、菊ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
 娘達は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷(すばしこ)く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃ無いよ。房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
 大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中躍(おど)って歩いた。
「へえ、繁ちゃんも種痘(ほうそう)がつきましたに、見て下さい」
 と在から奉公に来ていた下女も、そこへ末の子供を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、お繁は未だ匍(は)いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。漸く首のすわりもシッカリして来た。家の内での愛嬌者(あいきょうもの)に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
 こう三吉が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。お雪は一人ずつ寝巻に着更えさせた。下女は人形でも抱くようにして、柔軟(やわらか)なお繁の頬へ自分の紅い頬を押宛てていた。
 やがて三人の子供は枕を並べて眠った。
「一号、二号、三号……」
 この自分から言出した串談(じょうだん)には、三吉は笑えなく成った。彼の母は、死んだものまで入れると八人も子供を産んでいる。お雪の方にはまた兄妹が十人あった。名倉の姉は今五人子持で、※の姉は六人子持だ。何方(どちら)を向いても子供沢山な系統から来ている……
 翌日(あくるひ)、三吉は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。そろそろ彼の家では引越の仕度に取掛った。よく郊外の噂(うわさ)が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程工事が進んだろうとか、毎日言い合った。夫婦の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行く気がした。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:21

夫婦は

 夫婦は引越の仕度にいそがしかった。お雪は自分が何を着て、子供には何を着せて行こう、といろいろに気を揉(も)んだ。
「房ちゃん、いらっしゃい。着物(おべべ)を着てみましょう――温順(おとな)しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」
 こう娘を呼んで言って、ヨソイキの着物を取出してみた。それは袖口を括(くく)って、お房の好きなリボンで結んである。お菊の方には、黄八丈の着物を着せて行くことにした。
「菊ちゃんは色が白いから、何を着ても似合う」
 と皆なが言合った。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。
「いよいよ御別れでごわすかナア」と学校の小使も入口の庭の処へ来て言った。
「何物(なんに)も君には置いて行くようなものが無いが、その鍬(くわ)を進(あ)げようと思って、とっといた」と三吉は自分が使用(つか)った鍬の置いてある方を指して見せた。
「どうも済みやせん……へえ、それじゃ御貰い申して参りやすかナア。鍬なんつものは、これで孫子の代までも有りやすよ」
 小使は百姓らしい大きな手を揉んで、やがて庭の隅(すみ)に立掛けてある鍬を提(さ)げて出て行った。
 出発の日は、朝早く暖い雨が通過ぎた。長い間溶けずにいた雪の圧力と、垂下った氷柱(つらら)の目方とで、ところどころ壊(こわ)れかかった北側の草屋根の軒からは、隣家(となり)の方から壁伝いに匍(は)って来る煙が泄(も)れた。丁度、庭も花の真盛りであった。
 隣家のおばさんは炊立(たきたて)の飯に香の物を添えて裏口から運んで来てくれた。三吉夫婦は、子供等と一緒に汚(よご)れた畳の上に坐って、この長く住慣れた家で朝飯を済ました。そのうちに日が映(あた)って来た。お房やお菊は近所の娘達に連れられて、先(ま)ず停車場を指して出掛けた。
 道普請(みちぶしん)の為に高く土を盛上げた停車場前には、日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのが集って、名残(なごり)を惜んだ。そこまで夫婦を追って来て、餞別(せんべつ)のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなども有った。三吉の同僚に、親にしても好いような年配の理学士が有ったが、この人は花の束を持って来て、夫婦の乗った汽車の窓へ差入れた。その日は牧野も洋服姿でやって来て、それとなく見送っていた。
「困る。困る」
 とお菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、周章(あわ)てて父親へしがみ着いた。
 ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢(こずえ)、石垣の多い桑畑などは次第に汽車の窓から消えた……
 汽車が上州の平野へ下りた頃、三吉は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲に隠れてよく見えなかった。
 乗換えてから、客が多かった。三吉は立っていなければ成らない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処も無かった。お房とお菊とは、かわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳を宛行(あてが)われても、揺(ゆす)られても、泣止(なきや)まなかった。お雪は持余(もてあま)した。仕方なしにお繁を負(おぶ)って、窓の側で起(た)ったり坐ったりした。
 午後の四時頃に、親子五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければ成らないというので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、親達に連れられて始めての道を歩いたが、お繁の方は酷(ひど)く旅に萎(しお)れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま、気抜のしたような眼付をしていた。時々お雪は立止って、めずらしそうに其処是処(そこここ)の光景(さま)を眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
 と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
 郊外は開け始める頃であった。三吉が妻子を連れて移ろうとする家の板葺(いたぶき)屋根は新緑の間に光って見えて来た。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:21

一九四五年

 一九四五年の八月十五日からのち、日本の民主化がいわれるようになってから、いくつかの民主化のための委員会がつくられた。文化関係で、ラジオの民主化のための放送委員会、軍国主義の出版統制の遺風を民主化するための用紙割当委員会、出版文化委員会、教育の民主化、成人教育のための社会教育委員会、そのほか一九四六年から次の年の春までぐらいにつくられた委員会の多くは、正直に日本の民主化を任務として組織された。委員の人選も一種のあまくだりであったにしても、民主化について正直に発言し行動することのできる人々が選ばれたのであった。
 ところが、さまざまの委員会が、民主化のための委員会として組織された当時、吉田茂は、占領政策に対して危惧をいだいていた。その後、日本の民主化にいろいろの変調が加えられて、たとえば用紙割当委員会の権限が、ずるずると内閣に属す委員会に移され、文化材の合理的割当を口実に、官僚統制、赤本屋委員会に堕してしまうころから、吉田茂の明るい展望が記者団との会見で語られるようになった。
 更に、新聞も御用大新聞に整理することに成功し『くにのあゆみ』から『民主主義』読本を文部省が発行できるように日本の民主化が歪曲されて来るにつれて、吉田茂は、とうとう、日本人の大部分が満足していない国会を、外国の新聞がほめている、というような状態になった。高野岩三郎氏が死去されたのちNHKの会長となった古垣鉄郎氏は、英語もフランス語も達者であろうし、行儀がいいことが必要な時と場合の分別もあり、貴族院議員だったし、文化人であろうけれども、NHKは、新会長によって会長流民主化におかれざるを得ない。政府の放送委員会案というものが、はじめの放送委員会と本質的にちがうことは、日本のラジオを愚民政策の道具にしたくない人々の反対のきびしさを見てもはっきりしている。
 政府は、表面民主的な委員会を次から次へこしらえている。それが日本の人民の発展に限界を与えようとするものであることは、特別資格審査委員会一つを見ても、悲しいほどその目的があらわである。はじめ、日本の民主化のために発足したいろいろの「委員会」は、四年の間にあわれやへたぐされとなってきている。
 わたしたちは、こういう全体の傾向を理解し、委員会の本質について、一層監視をおこたってはならない状態におかれているのである。
 参議院の法務委員会と裁判所との間に、浦和充子の事件について、見解の相異があり、法務委員会の権限について論議されている。こういう問題も、わたしたちは、人民の基本的人権[#「権」は底本では「件」]の擁護とブルジョア的な法律適用による裁判が果して公正なものであるかどうかについての絶え間ない注目とを基礎にして、判断してゆく必要がある。参議院の引揚援護委員会も吉村隊事件ではいかがわしい委員会の本質を、人々の前にむきだした。
 今日の新聞では西尾末広の偽証罪が不問に附せられるかもしれないことについて、弁護士である人からの投書があった。有名なえらい人の偽証は無罪とされ、一般の人の偽証は犯罪とされているその点への疑惑が語られていた。裁判が精神的・物質的圧力から必ずしも自由でないことがうかがえる。
 目さきの話題だけに注意を奪われずに、わたしたちは、こんにちの反民主的な権力に影響をうけている各種の委員会の活動の本質について、積極的な発言をしてゆく義務がある。――わたしたちは、自分たちのこの高税で彼らを養い、政府をつくらせているのであるから。
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by adhrutjfh | 2006-03-04 13:20